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真壁華夜がその日・その時感じたことや考えたことの整理或いは備忘録的に使われることもあれば萌えメモとして使われることもあるし、日常の愚痴をこぼしていることもあるかと思います。基本的に偏屈な管理人sが綴っているのでその辺を許容できる人向け。反感買いそうなものは裏日記に書くようにしています。
2006/12/12 (Tue)
23:53:45
無駄に掛かってます。
ふと、昨日ネットから落ちてお風呂を済ませようとお風呂に向かう途中で自覚しました。「もう『皇 彼方(スメラギ カナタ)』(真壁のPN)のテイストの小説は書けないだろうなぁ」と。今はもう、小説書くスタイル――作風というか手法というかが『真壁 華夜』に食われてるよなぁと、とーとつに悟ってしまったのですよ。
同一人物じゃないんかいというツッコミは棚の上に置いといて下さい。感覚の問題なので。
小説書くときに『真壁 華夜』でいることが多くなったのが一番の要因だろうなぁきっと。『皇 彼方』を名乗るのにものすんごい違和感を感じるあたりもう重症。それだけオリジ書いてなかったんだなぁ…とサイトにかまけていた歳月を思い遣ってしまったわけですよ。
大学2年の夏に久保時同人小説執筆に手を出した当初はまだ、確か五作目が脱稿できてなかったので(できてなかったハズ)ちまちま「皇 彼方」でも小説書いてたのですよ。その頃はまだ真壁と皇を使い分けていた(ような気がする)。
でも五作目脱稿して『皇 彼方』で小説書く機会が激減し――というか皆無に近い状態になり、『真壁 華夜』として久保時やら時久保(リバ)やら真久保(性格には真田→久保田だろうが)やら真葛(これまた性格には真田→葛西なんだろうが抗わず(抗えず)流されてしまうあたりはもう真葛と表記して構わないと思う(笑))やら書いてるうちに完全にもう『皇 彼方』としての小説の書き方忘れちゃってるように思ったわけです。
客観視点で小説書くときの作風というか手法がもう、『皇 彼方』の面影ないんじゃないかという気がした。
あれです。『闇の雫』書いたのがきっかけですね。あれを書かなきゃこんなこと不意に自覚したりしなかったと思います。
久々に、オリジに近い書き方で小説書いた気がしたんですよアレは。
でも感覚はやっぱり『真壁 華夜』のスタイルだと思ったわけで。
乗っ取られたというか。
上書きされちゃったと言うか。
今オリジ書いても多分それはもう『皇 彼方』の小説じゃなくて『真壁 華夜』の小説だと思われます。書いてないから判らんけど。
もっと早く気づけよと言われそうな気がします。友人あたりから気付くの遅いとか突っ込みメルが届きそうだ(苦笑)
――で。
だからどーなのよって言われると、単にそんなことに気付きましたってだけなのですが。
京榎でも榎京でもいいのですが、これ以上サイトをごちゃごちゃさせるのもなぁという思いがないわけでもないが小説は書きたいわけで。
こーゆーのはいっそもう本にして完全限定生産とかにしておしまいってカタチにしてみるのがいいのだろうかとふと思ったわけです。
どうなんだろう。
ただまったく関係ないジャンル(強いて言うならツバサと出版社が同じっていうただそれだけのつながり(弱っ))の、さらにまた――多分茨道なのではないかと思われるCPの、しかも読んでみなきゃ好みかどうかも判らんような小説で本ってこれなかなか冒険というかやったら勇者っつうか…むしろもう挑戦状の如き思い切りではという思いもあり。
現状維持――別館を久保時以外で一緒くた――に留めるのが一番よいのかしらと思い直したりしている次第です。
とりあえず『塗仏の宴 宴の始末』のその後【宴の後(仮)】は書きたいなぁと。
同人視点ってのはなかなか面白いもので、そうだと思ってみるといろいろこうそういう類の疑念がわいてくるんですよね。
榎木津さんが関口の奥さんは「雪[ちゃん]」と呼ぶのに対して京極の奥さんは「千鶴[さん]」と呼ぶのは自分の中で自戒も込めた線引きしてる所為じゃなかろうかとか(勘繰り過ぎだとしてもその差は大いに知りたい。頑なに千鶴[さん]だし)。
毎回言葉少なに意思疎通できてるところとか(笑)。
『邪魅の雫』で「あんなものの真似をしたら身体が保たないぞ」と口にしてるのは、実際そんなところを目の当たりにしたことがあるからなんじゃなかろうかとか(その餌辺りを【宴の後(仮)】で真壁は勘繰って書こうとしていたりするんだが)。
偏見ってなぁ恐ろしいですね。
ところで京極本読み返していて妖怪シリーズにおける作中キャラの一人称の「僕」率が異様に高いのにこれまたふと気付きました。
真壁は一人称「僕」な人結構好きなんですけどね(笑)。
一人称が僕じゃない主要キャラ(本島さん言うところの『榎木津一味』(笑))って木場さんと和寅(私だよね確か)と――ん? それくらい? そのくらいしか思いつかないくらい皆が皆一人称が「僕」なんですよ。
だからどうってこともないのですが。
京極関係は、なんというか――特に『百器徒然袋』は漫画書けない自分がひどく悔しいです。漫画じゃないと面白くないネタがぽんぽん浮かんでくるんだが小説で書いたら面白くもなんとも無いのでそのままゴミ箱へぽいって感じです。
誰か代わりに漫画描いてくれる人がいたらシアワセなのに(真壁だけは確実にシアワセ(笑))。
もーちょっとで『百器徒然袋―風』が読み終わるので、そしたら『姑獲鳥の夏』にとりかかります!!
サイトは今まで通り気紛れ運営。
古書店・京極堂に段々似てきます(笑)
ふと、昨日ネットから落ちてお風呂を済ませようとお風呂に向かう途中で自覚しました。「もう『皇 彼方(スメラギ カナタ)』(真壁のPN)のテイストの小説は書けないだろうなぁ」と。今はもう、小説書くスタイル――作風というか手法というかが『真壁 華夜』に食われてるよなぁと、とーとつに悟ってしまったのですよ。
同一人物じゃないんかいというツッコミは棚の上に置いといて下さい。感覚の問題なので。
小説書くときに『真壁 華夜』でいることが多くなったのが一番の要因だろうなぁきっと。『皇 彼方』を名乗るのにものすんごい違和感を感じるあたりもう重症。それだけオリジ書いてなかったんだなぁ…とサイトにかまけていた歳月を思い遣ってしまったわけですよ。
大学2年の夏に久保時同人小説執筆に手を出した当初はまだ、確か五作目が脱稿できてなかったので(できてなかったハズ)ちまちま「皇 彼方」でも小説書いてたのですよ。その頃はまだ真壁と皇を使い分けていた(ような気がする)。
でも五作目脱稿して『皇 彼方』で小説書く機会が激減し――というか皆無に近い状態になり、『真壁 華夜』として久保時やら時久保(リバ)やら真久保(性格には真田→久保田だろうが)やら真葛(これまた性格には真田→葛西なんだろうが抗わず(抗えず)流されてしまうあたりはもう真葛と表記して構わないと思う(笑))やら書いてるうちに完全にもう『皇 彼方』としての小説の書き方忘れちゃってるように思ったわけです。
客観視点で小説書くときの作風というか手法がもう、『皇 彼方』の面影ないんじゃないかという気がした。
あれです。『闇の雫』書いたのがきっかけですね。あれを書かなきゃこんなこと不意に自覚したりしなかったと思います。
久々に、オリジに近い書き方で小説書いた気がしたんですよアレは。
でも感覚はやっぱり『真壁 華夜』のスタイルだと思ったわけで。
乗っ取られたというか。
上書きされちゃったと言うか。
今オリジ書いても多分それはもう『皇 彼方』の小説じゃなくて『真壁 華夜』の小説だと思われます。書いてないから判らんけど。
もっと早く気づけよと言われそうな気がします。友人あたりから気付くの遅いとか突っ込みメルが届きそうだ(苦笑)
――で。
だからどーなのよって言われると、単にそんなことに気付きましたってだけなのですが。
京榎でも榎京でもいいのですが、これ以上サイトをごちゃごちゃさせるのもなぁという思いがないわけでもないが小説は書きたいわけで。
こーゆーのはいっそもう本にして完全限定生産とかにしておしまいってカタチにしてみるのがいいのだろうかとふと思ったわけです。
どうなんだろう。
ただまったく関係ないジャンル(強いて言うならツバサと出版社が同じっていうただそれだけのつながり(弱っ))の、さらにまた――多分茨道なのではないかと思われるCPの、しかも読んでみなきゃ好みかどうかも判らんような小説で本ってこれなかなか冒険というかやったら勇者っつうか…むしろもう挑戦状の如き思い切りではという思いもあり。
現状維持――別館を久保時以外で一緒くた――に留めるのが一番よいのかしらと思い直したりしている次第です。
とりあえず『塗仏の宴 宴の始末』のその後【宴の後(仮)】は書きたいなぁと。
同人視点ってのはなかなか面白いもので、そうだと思ってみるといろいろこうそういう類の疑念がわいてくるんですよね。
榎木津さんが関口の奥さんは「雪[ちゃん]」と呼ぶのに対して京極の奥さんは「千鶴[さん]」と呼ぶのは自分の中で自戒も込めた線引きしてる所為じゃなかろうかとか(勘繰り過ぎだとしてもその差は大いに知りたい。頑なに千鶴[さん]だし)。
毎回言葉少なに意思疎通できてるところとか(笑)。
『邪魅の雫』で「あんなものの真似をしたら身体が保たないぞ」と口にしてるのは、実際そんなところを目の当たりにしたことがあるからなんじゃなかろうかとか(その餌辺りを【宴の後(仮)】で真壁は勘繰って書こうとしていたりするんだが)。
偏見ってなぁ恐ろしいですね。
ところで京極本読み返していて妖怪シリーズにおける作中キャラの一人称の「僕」率が異様に高いのにこれまたふと気付きました。
真壁は一人称「僕」な人結構好きなんですけどね(笑)。
一人称が僕じゃない主要キャラ(本島さん言うところの『榎木津一味』(笑))って木場さんと和寅(私だよね確か)と――ん? それくらい? そのくらいしか思いつかないくらい皆が皆一人称が「僕」なんですよ。
だからどうってこともないのですが。
京極関係は、なんというか――特に『百器徒然袋』は漫画書けない自分がひどく悔しいです。漫画じゃないと面白くないネタがぽんぽん浮かんでくるんだが小説で書いたら面白くもなんとも無いのでそのままゴミ箱へぽいって感じです。
誰か代わりに漫画描いてくれる人がいたらシアワセなのに(真壁だけは確実にシアワセ(笑))。
もーちょっとで『百器徒然袋―風』が読み終わるので、そしたら『姑獲鳥の夏』にとりかかります!!
サイトは今まで通り気紛れ運営。
古書店・京極堂に段々似てきます(笑)
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